最近

休職してから4ヶ月目です。

 

 

 

このごろものすごく体調が悪い。

 

 

 

適応障害になってから気分の浮き沈みはずっとあるのですが・・・

最近はとにかく沈みっぱなしのことが多いです。

 

 

 

 

気持ちとしては働きたいけど

元の職場に元のポジションのまま戻るということを考えると

死にたい気持ちになります。

 

 

 

 

折れそうな心を奮い立たせることはいままでやってきたけれど

 

 

 

 

 

一度折れてしまった心を奮い立たせるのってこんなに大変なんだと痛感。

 

 

 

 

 

いままでどうやってがんばってきていたのか思い出せません。

 

 

 

 

 

 

私は復職できるのか不安しかない。

これから先不安だけ。

生きていることが辛い。

 

 

 

 

 

 

けど、こういうことを考え出すとどんどん心が沈んでいくので

 

 

 

 

 

 

自分の心に向き合うことは大事だけど時々現実逃避。

 

 

 

 

 

ただ、このコロナ渦で上手に現実逃避するのが難しい。

 

 

 

 

 

 

なんで生きていかなければならないのでしょうか。

自分の心に聴いてみる

適応障害になって自分の心の声がどんどん聴こえなくなっていきました。

 

 

 

 

なにがしたい

 

 

 

なにが食べたい

 

 

 

 

どこに行きたい

 

 

 

 

そんなこともわからなくなっていきました。

 

 

 

 

だから今ゆっくりして自分の心に聴いてみることをやっています。

 

 

 

 

 

 

これが意外と難しい。

 

 

 

 

 

なにが食べたいからはじめました。

 

 

 

 

 

ただ、休職してしばらくは外に出ることができなくて

自分で買い物にいくことさえできませんでした。

 

 

 

 

 

だから家にあるものでなにができるかを考えて作るということをしていました。

 

 

 

 

 

 

そもそも自分になにが食べたいか問いかけてもなにもきこえてこなかった。

 

 

 

 

 

でも自分の心に聴くことを続けていくうちに、少しずつきこえてくるようになってきました。

 

 

 

 

 

外に出かけられるようにもなってきて、

買い物をするときには基本的には安いものを買いますが、

その安い食材をつかって何を食べたいかを自分にきいてみます。

 

 

 

 

 

自分の心の声がすこしずつきこえてきます。

 

 

 

 

きょうはアジフライをつくろう。

 

 

 

 

 

 

やりたいこと

 

最近は、

 

 

「なにかやりたい」

 

 

 

「なにかやらなければ」

 

 

 

 

という意欲がわいてきました。

 

 

 

 

ちょっと前まで気持ちだけ焦ってでも体は動かないし気力もわかなかった。

 

 

 

 

 

だからやりたいと思えること、体が動き出そうとしていることがとても嬉しいです。

 

 

 

 

 

本題。

 

 

 

 

最近やりたいこと・・・

 

 

 

 

 

ピラティス or ヨガ

 

 

 

 

 

体の調子を整えることは心の調子を整えること。

 

 

 

 

 

小さい頃からダンスをやっていたので、体を動かすことがとても好きです。

昔は、ダンスとか表現することをいつか仕事にできたらいいなと漠然とおもっていました。

 

 

 

 

 

教員をして、ダンスを教えることを通して、やっぱりダンスを教えるって楽しいな。

自分に向いてるかも。と思いました。

 

 

 

 

 

ピラティスやヨガもダンスに近い部分があると思います。

 

 

 

 

心も整えながら体の調子も整える。

 

 

 

 

 

いままでジムのレッスンでうけたことはありますが、

もう少しちゃんと学んでみたいと思います。

 

 

 

 

 

適応障害になるまで

 

最近では適応障害の症状が少しずつよくなってきていて、

今後どう働いたら同じことを繰り返さないですむのかということを考えています。

 

 

 

適応障害なので、同じ環境に同じ自分で戻ってしまうと確実に同じことになって

もしかすると鬱病にまで発展するかもしれません。

 

 

 

 

そうならないためにも、なぜ今回自分が適応障害になってしまったのか

環境的な要因と、自分の考え方や働き方等内的な要因とで分けて考えて見たいと思います。

 

 

 

 

<環境的要因>

はじめてづくし(異動・特別支援学級・中学校・特別支援教育コーディネーター・運営委員会・校内支援委員会)

昨年度の特別支援学級担任皆異動でいない。

・大規模校で特別支援学級も3学級ある。

3学級中の1学級の担任が初任の子。⇒指導教諭も任される(やったことない)

もう一人の学級担任が学級が開いて1週間決まらなかった。

 ⇒1週間後担任は決まるが・・・うん。要支援。

・昨年度の担任達昨年のデータを一切合切削除して異動していた。

・昨年度のことを聞いてわかる人が誰もいない。

管理職に相談しても「自由に決めていいんだよ~」(聞こえはいいがただの丸なげ

・他の学校では特別支援学級の担任全員で分担している仕事を私一人に押し付ける

・自分の担任している学級でない難しい保護者の対応も任される。

・昨年度会計に問題があったということを受けて今年度特別支援学級のみ学校徴収金を

 とらないことを管理職及び事務の先生から強要。

 ⇒授業がまわらない⇒相談する⇒理詰めで押さえ込まれる

・今年から教室配置が変わり、例年通りであれば配慮がいらなかったところにまで

 気を配らなければならなくなった。

 

とりあえずいま考えられることはこのぐらいですかね。。。

 

 

 

 

なんかお休みもらう前は、他校の特別支援学級の先生たちに状況を説明したら

「おかしいよ?!管理職なにかんがえてんの???!!!」

って言ってたけどそのときは、

「でも結局それで仕事をうまくまわせない自分が悪いんだ。」と思っていました。

 

 

 

 

 

 

が、

 

 

 

 

 

いまよく考えてみるとおかしくない?????!!!!!!

 

 

 

 

 

管理職人事配置どうかしてるぜっ!!!!!!(ブラマヨ風)

 

 

 

 

 

例えばだけど、昨年度の特別支援学級担任誰も残留しないのであれば昨年度通常学級の担任だったり副担任をしていた先生を特別支援学級にまわすことだってできたわけですよね?????

 

 

 

 

 

だって学年の先生全員が異動してきたばかりの人で構成されることってないですよね?

 

 

 

 

 

特別支援学級軽視しすぎじゃない??????!!

 

 

 

 

 

続いて

 

 

 

 

<内的要因>

人に仕事を振るのが下手くそ。

初任の子に仕事を振るためには一から全部説明しなきゃいけない・・・

講師の先生に仕事を振るためにはイヤミに耐えて仕事遅いのにも耐えて進捗状況をいちいち確認しながら仕事をすすめないといけない・・・めんどくさくなってしまったんです。どんどん人を頼れなくなりました。

自分の理想に近づきたいとあれこれやりたがる。

教員になって7年。教諭だけで考えても5年目でした。色々と知識や経験も積み重ねていき「この子はこういう授業をしたら伸びるかも。」「あの子にはあれを教えたい。」たくさんたくさんでてきます。特別支援学校にいた頃は、子ども達に注ぐ時間がたくさんとれました。しかし、異動してから自分の学級の仕事ができるのは21時をすぎてから。どう考えても時間が足りなかった。もっとこうしたいのにああしたいのにというのがでてくるのにそれに対応出来ない自分が不甲斐なくて、子ども達に申し訳なくてどんどん自分で自分を追い込んでいきました。

・SOSをだせなかった。

異動したばかりで誰に頼っていいのかもわからない、相談したところで特別支援学級のことよくわからないけどと言われる、で誰にもSOSが出せませんでした。これが地味に一番きつかったかもしれないです。特別支援学校にいた頃は、同期もいたし、同じ年で仲良い先生もいたし頼れる先輩たちもいたので何かあったときは相談にのってもらったり愚痴をきいてもらったりしていました。でもそれが全くできなかった。コミュニケーションをとっていなかったわけではないんですけど。楽しく雑談をするのはしていました。徐々に笑うこともきつくなって雑談も減っていきましたが・・・同じ立場で話せる人がいないのはきつい。

・わかりません。できません。が言えなくなっていった。

異動前、配属先が中学校に決まり、不安しかなかったとき、特別支援学級の経験がある先生方から、1年目は「わかりません。できません。ってちゃんと言いなさい。」といわれていました。4月異動すると初日から運営委員会の会議に入らなけらばならず特別支援に関することは全て私に聞かれました。昨年のことも知らないし、子どもたちにも一回もあったことない、加えて特別支援学級のことも机上の学習でしか学んでいない、そんな私に全部聞いてきます。最初こそ「わからないです。」と言っていました。が、「だよね~。でも今年はどうしたい?先生が決めていいんだよ。」と言われました。私にはもう「わかりません。できません。」が使えなくなりました。わからないならわからないといけない。できませんじゃないやる。必死にやりました。目の前の仕事。わからないことは他校の先生に聞きながら。異動1年目からこんなにハードモードになるなんて思わなかった。

 

 

 

自分が思いつくのはこんな感じです。

 

 

 

 

傍から見るともっとこうしてたらよかったのにとかあるのかもしれません。

もっと自分でも内面見つめ直します。

 

 

 

 

今後の働き方考えよう。

 

 

 

 

適応障害

 

深田恭子さんが適応障害に』

 

 

 

という記事やニュースで一時「適応障害」が検索ワードトップ10入りしていました。

 

 

 

 

やはり誰もが適応障害になりうるのだなと改めて思います。

 

 

 

 

 

数ヶ月前までは、まさか私が精神疾患になるなんてありえないと思っていました。

 

 

 

 

 

なぜならばこれまでどんなに過酷な状況に置かれても大丈夫だったからです。

 

 

 

 

しかし、同じ環境に置かれても自分の周りの人たちや社会の状況によっては今までは大丈夫だったひとだっていつでも適応障害等の精神疾患になりうるのです。

 

 

 

 

適応障害と聞くと、未だに「怠けてる」「甘えてる」「みんな同じ環境でもがんばってるのに」なんていうひとがいます。

 

 

 

適応障害」この言葉がそんなワードを引き出してしまっているような気もします。

自分でも適応障害と診断されたとき、社会に「適応」できなかった自分が悪いんだと思いました。ただ、どこかでみたのですが社会にがんばって適応しようとした結果なったのだという言葉に少し救われた気持ちになりました。

 

 

 

自分はがんばりすぎたのだと、今は少し休んでもいいのだと許された気持ちがしました。

 

 

 

そもそも、適応障害になる人は「真面目すぎる人」が多いようです。

 

 

 

適応障害になって今までの働き方を振り返ってみました。

子どもたちのためにという一心でがむしゃらに働いていました。

 

 

 

 

私にとっては長い教員人生の中のたった1時間の授業だとしても子どもたちにとってはとても大事な1時間だと思い、授業1時間1時間とても時間をかけて作り上げていました。

 

 

 

 

 

学校では、30代後半~40代の教諭(正規で雇われている先生)の割合がとても少ないです。そのため、20代後半からは、中堅ポジションで、行事で立ち上がる係ではだいたいチーフをしていました。

 

 

 

 

 

教諭の中では中堅でも、講師(非正規の先生)も合わせると、まだまだ若手の方です。

なので、年上で私よりも教員の経験豊富な先生たちの上で仕事をすることになります。

そんな環境だったのでより真面目にしっかりしなきゃと勝手に背負い込むようになっていきました。

 

 

 

 

 

ただ、特別支援学校にいたときには、そんな私の姿をみた先輩の先生が声をかけてくれたり、後輩の先生が「雑用はやります!!」と率先して仕事をしてくれたりしていたのでなんとかやってこれたのだと思います。

 

 

 

 

異動して環境ががらっとかわり、以前よりもしっかりしなければならない立場になりました。

 

 

 

 

加えて私の下についてくれていた先生は、初任の先生と問題ありな講師の先生。。。

 

 

 

 

どうやってやっていけというのでしょうか。

 

 

 

がんばってがんばってがんばっても仕事はおわらない。

 

 

 

 

仕事を振るにも1から説明しなきゃいけない

 

 

 

仕事を降ったら降ったで遅すぎる

そして、自分で考えてやろうよ。。。という仕事も全部聞いてくる

 

 

 

 

なんなら一人でできるの???

 

 

 

 

そんな環境とどう考えても3人分くらいの仕事を一人に押し付けられ(管理職も容認というか管理職から仕事がふってくる)

 

 

 

 

昨年度の先生がやった責任を今年取らされて会計関係も特別支援学級だけ勝手にやってと言われ

 

 

 

 

どんどん周りが真っ暗になっていく感覚でした。

 

 

 

 

 

それでも仕事はやらなきゃ。

 

 

 

 

 

子どもに迷惑がかかると必死にやっていました。

 

 

 

 

 

今考えると異常な働き方をしていました。

 

 

 

 

寝る時間も食べる時間も削って仕事をしていました。

 

 

 

 

たぶんどんなベテランの先生が私のポジションに入ってても潰れてたと思います。

 

 

 

 

今、冷静になって考えるとふつふつと管理職への怒りが沸いてきます。

 

 

 

 

でもあのときは、出来ない自分が悪いんだと自分ばっかり責めて

余計に追い詰めてしまっていました。

 

 

 

 

心療内科にかかるようになってもっと自分のことを大切にしなきゃいけないとおもいました。

 

 

 

 

 

今、必死に毎日を戦ってる人たちがたくさんいると思います。

 

 

 

 

どうか、時々自分の声を聞いてあげてください。

 

 

 

 

 

適応障害は誰もが成りうるものだけど

 

 

 

 

できれば私と同じ苦しみを味わって欲しくない。

 

 

 

 

なんだか支離滅裂な文章になってしまいましたが、

自分を大切にしましょうということで今日の記事はおしまい!

 

 

 

これまでのわたし①

教諭になって5年目。

今年は4年間の初任校での勤務を終えて異動の年でした。

 

 

 

初任校での4年間。

正直、大変な4年間だったと思います。

 

 

 

私は特別支援学校教諭での採用なので最初の4年間は特別支援学校での勤務でした。

特別支援学校では、複数担任制でクラスが構成されます。

私のいた学校では2~4人で担任を組み、1学級をもつ形になっていました。

 

 

 

どの先生と組むかでその1年間の業務内容や環境等大きく変わります。

 

 

 

誰と誰が組むかは学校準備委員会に選ばれた先生たちで考えます。

大人同士ですが、この先生とこの先生は仲が悪いとか、そりが合わないとか

この先生はこの生徒、保護者からNGがでてるとか、この先生がいると

この生徒が荒れるとかいろいろ考えて組まなければなりません。

 

 

 

わたしは若手の若手だったので、もちろん準備委員会にはなりません!

そして毎年4月に行われる担任発表まえ、

「ごめーん!!!!!」という言葉からはじまることが多かったです。。。

 

 

 

初任校での1年目こそ「ごめーん!」はなかったですが、

後々考えると、よく1年目の教諭をあのクラスに入れたな(^_^;)

という学級でした。(大人も子どもも。。。)

 

 

 

1年目の学級は、3人担任で、わたしと定年間近の先生2人とで組んでいました。

定年間近の先生方なので進路に関してはとても勉強させていただきました。

が、子どもたちは全く言うことを聞かない。。。

私がクラスから抜けると乱闘が起きるクラスでした。Σ(゚д゚lll)

 

はじめまして

はじめまして。

 

中学校教諭をしており、現在適応障害にて休職中です。

休職中なにをしたらいいのか、どうやって休んだらいいのか

よくわからず日々悶々としている中で、

今の状況を発信することで自分自身を整理することができるかと思い

ブログをはじめてみました。

 

 

 

「なぜ適応障害になってしまったのか」

 

「なぜ休職にいたってしまったのか」

 

「教員の仕事って??」

 

「これからどうしていくの??」

 

自分が考えていることを整理しつつ文章にしていきたいと思います。

そして、これから先の生き方、働き方についても考えていけたらと思います。